【解説3】
ひし形マンダラについて


山形県の山辺町に「世界でもめずらしい【ひし形まんだらの里】」といわれている作谷沢地区があります。
ここに山形師範学校卒業後に作谷沢教師生活を離れて、地域史の研究に専念された鳥兎沼宏之先生の著書のなかに、「ひし形まんだらの里」についての記述がありました。

作谷沢地区の特徴ある地名を集めてみると、この山中を舞台に活躍した修験者たちの姿が浮かびあがってくる。
ただ修行するだけでなく、地の利を見分け、田畑を開き、湧き水を利用して用水路や溜池を造り、金属を採取するという技術を駆使して、たくましく開拓を進め、山野を人間の住める土地に造り変えていった人たちである。
私には、その人たちは、今日ではちょっと考えもつかないような、とてつもない技術を持っていたように思われてならない。(カタカムナの潜象・現象システムに気づいていれば、容易に創ることはできたでしょう)
それは、もともとは、祈りの場としての霊場を構築するという目的で進められたが、それが同時に人間が住む場所の開拓ということにもつながったのだ。
祈りというものの持つ着想のすばらしさ、集団結集力のものすごさを考え直し、とらえ直してみる必要があるのではないだろうか。
作谷沢地区にのこる伝承を調査して行く中で、私はおどろくべき事実に突き当たった。
それは、この周辺一体が、おそらくは平安中期頃に、曼荼羅(まんだら)の世界として大土木工事によって構築されたのではないかという疑問である。この前提にたって地名を考えてみると、きちっと当てはまることにおどろかされるのである。
その全体像は、次のように雄大なものであった。
白鷹山と東黒森の山頂を線で結んで延長すると雷山(いかずちやま)につき当たる。今度は、白鷹山と西黒森の山頂を結んで延長すると、ふしぎなことに三宝荒神のある丸森山にぶっつかる。白鷹山から雷山まで約四八五〇メートル、白鷹山から丸森山までも約四八五〇メートル、ほとんど同じと言ってよい。
雷山と丸森山の間は約二七五〇メートル、これを直線で結ぶと、きれいな二等辺三角形が描かれる。


雷山と丸森山のちょうど中間点にしるしをつけてみると、虚空蔵(平林山)の南側中腹にある勢至堂に重なる。このお堂は、中世の作と推定される鉄製の懸仏(かけぼとけ)がまつられてある古い建築物である。
白鷹山頂とこの勢至堂を結んで、ずうっと北の方に延長してみた。すると、なんと、山辺町面白(おもしろ)の東側にある<神山>に突き当たったのである。<神山>とは、その名の通り、神の座し給う聖なる山という意味であろう。
雷山から神山までも約四八五〇メートル、丸森山から神山までも、約四八五〇メートル、まったく同じである。白鷹山から神山までの直線距離は、約九三〇〇メートルである。
こうして、実にみごとな菱形図形が地図上に出現したのである。
この菱形のたて軸は、南北線から三十二度北の方が東に傾いている。そして、このたて軸上に、三嶋明神と勢至堂、および地名にだけ残る仏法坊がある。
そして、作谷沢地区の神社仏閣と民家がすべてこの菱形の中に存在し、菱形の四つの辺がこの世とあの世を区別する境界となっている。
聖なる菱形の内部が、神仏と人間が同化するこの世の小宇宙であるとすると、その外側は他界、つまり、あの世である。雷山――勢至堂――丸森山と結ぶ線が、幅が最も広いところであるが、その東側は<地獄谷>である。そして西側は<三宝荒神>と<西の沢>である。どちらも、霊のこもる他界である。
こう考えてあらためて見直してみると、この聖なる菱形で区別される境界線上に石仏が集中して分布し、地名も、それと関連しているのがわかるのである。
まさしく、この菱形の内部は、曼荼羅を現出した小世界であるということに、私の思いは到達したのである。
山のてっぺんのまんだら世界なのです。



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