【解説1】
山形山岳マンダラについて


山形県は、その名の示すように、山岳が集形した地です。千メートルを超す山々が県境に連なり、近景の山々と重なって深く厳かな景観を形成しています。
冬は平地の街から近くの山、そして高峰まで、いちめんの雪で白銀に輝くかと思うと、春から初夏にかけて、里は新緑が萌え、山は残雪のなかで山桜の花が山肌にちりばめられたように咲きます。夏、暑さを逃れて人々が川や海に涼をもとめるときも、霊峰は残雪をいただき、秋、街路樹が紅葉するころ、山の木々は落葉して雪降る冬を待つのです。山形の四季は変化に富み、美しさとともに自然の神秘を醸し出しますが、秀麗な山々はその極みといいましょう。

出羽三山信仰、湯殿山信仰、羽黒修験道、端山(はやま)信仰…恵まれた自然風土のなかに生きてきたこの地の人々は、山岳信仰を核とした篤い信仰心を育んできました。山形の信仰構図を、山岳が集形する姿を基層にして考え、想像してみましょう。

山形山岳マンダラ


胎蔵界マンダラ


山形県に高さ千メートルの雲海が漂うと、そこからそびえ立つ山は、北から鳥海山、神室山、御所山、蔵王山、吾妻山、飯豊山、朝日岳、摩那山。この八山の山頂に神仏が宿ると考えると、これは密教の胎蔵界マンダラの中核である中台八葉院の八葉をあらわしているようにみえます。その中央に位置するのが大日如来を祀る出羽三山というわけです。
現在、出羽三山の構成は羽黒山、月山、湯殿山で、主峰は月山ですが、室町時代以前の構成は羽黒山、月山、鳥海山、さらに草創期には羽黒山、月山、葉山で、湯殿山は奥の院として重視され、最も信仰を集めた聖地でした。湯殿の御神体である巨岩は、密教がさかんだった江戸時代までは、大日如来として崇められていたのです。
このように考えれば、大日如来を中心にした見事な中台八葉院が山形の大地に生まれ、それは「山形山岳マンダラ」と呼ぶに相応しい壮観となるでしょう。

この山岳マンダラを形成している山々は、修験道がさかんな時代には、修験の霊山となりました。その中核は、出羽三山の羽黒修験道で、東日本一円に勢力を伸ばしています。全国各地の修験道霊山の開山が、ほとんど役行者(えんのぎょうじゃ)といわれているなかで、羽黒修験だけは、聖徳太子の従兄弟で崇峻天皇の子、蜂子皇子(はちこのおうじ)の開山であるとして、その特異性を固持してきました。
出羽三山のなかで、“修行”の中心が、修験道の拠点である羽黒山だったとすると、“信仰”の中心は、かつての総奥の院である湯殿山でした。湯殿信仰はひじょうに深く、大きな広がりをもっていたようです。江戸時代ですが、丑年ご縁年のときには、年間十五万人の参詣者があったという記録があります。現在でも所々に「湯殿山」と書いた石碑が建っていますが、その数は、山形市だけでも二百九十二基にのぼり、福島県・宮城県にはそれぞれ千基以上、岩手県にも五百基以上あるだろうと聞きました。その広がりは東日本一円で、遠くは九州からも参詣があったと伝えられています。
湯殿山は、素足でなければ入れないところです。素足になって、神主さんに清めていただいて、その聖地に入って礼拝するわけですが、まず大きな岩の前に立ちます。その頂からお湯が拭き出している岩、これが御神体だということです。この巨岩信仰は、大和三輪山の大神神社の磐座(いわくら)のように、日本人がずっともちつづけた自然崇拝の象徴ではないかと、私たちは考えています。

その御神体の礼拝が終わると、さらに左奥のほう、岩供養という霊所に行くのですが、そこには、祖霊を祀る祠(ほこら)と、水の滴る岩があります。小さな塔婆に何々家の霊と書き、五色の梵天とともに祠に納めると、五色の梵天は、アイヌのイナウと同じく鳥ですから、塔婆に宿した霊を、阿弥陀如来のおられる月山山頂へと案内してくれるわけです。また、祖霊の依った人形の紙を、水に浸し岩に貼ると、清水で浄められた祖霊は天に昇り、この世に再生するといいます。

この湯殿山に残るのは、二つの原始信仰でしょうと思います。一つは自然崇拝であり、もう一つは祖霊崇拝です。先祖から流れてきた命の流れのなかに、いまの自分の命があり、自然の空気や水や動物や植物が、人間の命を支えるのだとすれば、自然崇拝と祖霊崇拝は、人間にとって欠かすことのできない、大事なことではないかと思えるのです。 科学技術文明が怒涛のごとく押し寄せる現代社会、先人が創り残した精神世界が根底から脅かされているとき、潜在する精神風土をわたしたちで守り続けたいと願っております。



曼荼羅の心

曼荼羅の「マンダ」は真理や本質的なものの意味で、「ラ」は所有する、集めることといわれており、曼荼羅とは密教が教える真理や宇宙観を図式的に形にしたものです。
最近、曼荼羅などの東洋思想が見直されていますが、その背景には十九世紀から恩恵を受けてきた近代文明に対するいろいろな疑問が、現代人の心に頭をもたげてきたことがあるでしょう。
日常生活を根底で支えてきた科学技術や合理主義が生み出した物質文明に対して、なんとなく不安や危機感を抱き始め、それに代わって私たちの心の問題を解決してくれるものを模索し始める時代が到来してきているように思えます。
科学技術文明が進めば進むほど、人間疎外や公害といったマイナス面が目立つようになってきて、物が豊かになる反面、人間の心は貧しくなってきたように思え、科学技術が進歩するだけが必ずしも幸せな未来を約束するものではないと気づいたとき、東洋思想が見直され、曼荼羅が登場してきたのだと思います。

「曼荼羅というのは現代人に与えられた“パズル”です。単に絵が描いてあるというだけではなく、この中に私たちの無限の智恵と世界観が凝縮されており、永遠に解くことのできないパズルを目の前に突きつけられているようなものです」とラダック学術調査隊の佐藤氏が言っていますが、それは曼荼羅が宇宙の真理を象徴し、シンボライズしてわれわれに訴えかけているからでしょう。
曼荼羅は単に仏や菩薩などを並べてあるというのではなく、それぞれきちっとしたシステムをもっています。そしてシステムと同時に総合性をもっています。仏教だけでなく、ヒンドゥ教の神もバラモンの神も餓鬼も、その個性をもったまま全部包み込み、システムのなかに組み込んで、密教的なものに変えていきます。その包容性と、しかもそれぞれの個性が発揮されていることが、多元化された価値観の時代に多様化をそのまま形にした曼荼羅の思想が求められている理由だと思います。

曼荼羅にはいろいろな種類がありますが、日本で一般的なのは、真言宗の開祖空海の師である中国の恵果阿闇梨がつくったといわれている金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の両界曼荼羅です。
金剛界曼荼羅は男性的原理で永遠の智恵を表現し、胎蔵界曼荼羅は女性的原理で無限の慈悲と豊饒を表現しているといいます。

金剛界曼荼羅を眺めたとき、そこには二つの流れが観察されます。一つは中央の成身会から始まって下に降り右に回る向下門と、逆に降三世三昧耶会から上に昇り左に回り上昇する向上門です。
向下門は仏によって救われる救済論的な道程を説明したものといい、向上門は密教の修行によって俗世界から仏による聖なる世界への悟りへの移行を論したものだそうです。

胎蔵界曼荼羅を眺めると、中央に中台八葉院があり、その中央の本尊大日如来の徳性が密教の教義にのっとって外部へと遠心的に展開しています。と同時に、周辺のものたちが本尊大日如来に向かって帰依するという回帰の構造も示しています。要するに交差する二種の流れが巧みに作用しているのです。

曼荼羅は直線的、一方的な世界観ではなく、あくまでも流動的でダイナミックな世界の実相を表し、また聖なる世界と俗なる世界を区別すると同時に、聖なるものは俗なるもの、俗なるものは聖なるものという聖俗同居説も説いています。
さらに曼荼羅は、人間の深奥な心の世界も表しているといいます。人間の深層心理の世界は、内側に局限された世界でありながら人間の内側だけにとどまりません。そこには、無限に広がる宇宙を照らし出し、それと結びついているものがあるといいます。人間が宇宙そのものであり、宇宙生命と一体化した存在であることを示しているのが、曼荼羅なのです。
曼荼羅では、人間は宇宙と溶け合う自然のなかの一部なのです。この哲学的思想の基盤となっている宇宙中心主義こそ、地球を護り、未来を開く唯一の鍵であることを、曼荼羅は形で論してくれているのです。


山形について、私なりに感じたことをお話してみます。

山の意味
高くとがったみねの形にかたどり、やまの意を表す。物事の頂点・クライマックス

形の意味
形を鳥居
 と
に分けて

鳥居
⇒神々への入口

⇒美しくととのえる・かがやき

⇒いきおい、あらわれる


すなわち、「山形」とは 高くとがった物事の頂点に神々への入口を入ると美しく輝いている神様が現象化させてくれる意味にもとれます。 山形はすごいですね!!



お薦めいたします。